狼として生きる

音もなく 臭いもなく 智名もなく 勇名もなし

村上春樹の短編"沈黙"について

下の小冊子,もしくは,短編集レキシントンの幽霊に収録。

沈黙 (集団読書テキスト (第2期B112))

沈黙 (集団読書テキスト (第2期B112))


レキシントンの幽霊 (文春文庫)

レキシントンの幽霊 (文春文庫)


(予め断っておきますが、私は村上春樹さんの本をほとんど読んだことがありません。以下の文章で、変なことを言ってるかもしれませんが、まぁ気にしないで下さい。ど素人が書いていることですんで。)



“いじめをウリにするな!!”
と言ったのは誰だっただろうか。
それ自体はどうでもいい。(多少思うところもあるが、本題とズレるので省く。)人は自分の体験したことしか理解できないという仮定が正しければ、それは正しい反応なのだろう。
で、今回は村上春樹の短編”沈黙”に、自分はある種の特別な感慨を抱くということについて。



この作品を初めて読んだのは高校生のとき。これで。高校の図書室で、中西準子の本の近くにあったから手に取った記憶がある。
読んでみて驚いた。自分の他にもこの手の体験をしている人がいるということに。高校生くらいだと、未だ身震いするような感動に出会える年代だと思うが、自分の経験したなかではradioheadの”the bends”(ASIN:B000007363)に近い印象がある。自分の中には、普段は顕在化していない、抑圧された何かがつねに蠢いている。これはそれを刺激したのだ。自分はあまりの絶望に無感動の境地(apathy:アパシー)を拓くといえばいいのだろうか、とうに感情は死んだものだと思っていたのだが、まだ、それはあったのだ。泣きそうだった。



内容は、筆者がある男の体験談を聞くというもので、多くの人にとっては大した意味を持たないであろう文章だ。しかし、これはかつて自分が経験した、あの耐え難き時間、あれを巧みに表現している。あれは一体なんだったのだろうか。小学校6年の3学期あたりだから、たった数ヶ月のことだが、あれは自分を変えた。かつてあったはずの牧歌的な何ものかは消え、強迫観念が自分を覆い隠した。それはいつも自分を押し潰すように頭の上にのしかかり、そのせいでいつも下を向いていた。他人と話すときには変な動悸がする。何年も対人恐怖は消えなかった。友達?他人は皆自分を攻撃するためにいる。用心しろ!またあんな目にあったら今度こそ生きていられないぞ!本能だけが自分を守ろうとしていた。



家から出るのが怖かった。ただでさえ狭い田舎町、どこかであいつらに出会いでもしたら…、それだけで呼吸できなくなる。圧倒的に怖い。外に出るのが怖い。怖い。怖すぎる。



何より辛かったのは、この体験を誰にも言えなかったことかもしれない。誰かに助けを求める?無理解と嘲笑は自分の寿命を縮めるだけだとわかりきってる。うるさいよ。俺に触るな。



 あの体験は、誰も自分のことを助けてくれないということをなにか深いところに刻んだのだと思う。誰も信用してはならないし、そんなに危険なことをするくらいなら、引き篭っていたほうがマシだ。



 何を書こうとしていたんだっけか?とりとめもなく書いてしまった。まとまらないのでここまでにします。みんな死ねよ。

※追記

もう一つだけ。
最初読んだ後に感じたことがもう一つ。
ああきっと俺はもう救われないんだな、と思った。
この呪縛からは、逃げられない、って。
現にこの話の主人公もそうじゃないか。
何年経ったって消えない、消えやしないんだ。
直感的にそう感じたかな。

今から思うと一寸思い込みすぎた気もするけど、
まぁ当たらずとも遠からずかな。
サンプル数が少ないから、正確さに欠ける議論だけどね。

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